北の大地にひっぱられて

ひよっこ北海道フードマイスター&フードアナリスト(^^)仙台在住北海道大好きなアラサー♀の北海道ぶらり旅記と日々の生活

【ひとりごと】3.11 私はお前を許さない。

毎日、太平洋を見て育ちました。




毎度の通り呑気な北海道話の途中ですが、
この日だけは特別なので
振り返らせてください
(長文になります。ご容赦ください)

東北の太平洋に面した街で育ちました。

高校を卒業するまでの18年間、
東北地方のある太平洋に面した
とある小さな街で育ちました。



交通の便が悪い場所で
県庁所在地から一番遠く、
善かれ悪しかれ閉鎖的で
どこか置いていかれたような街。



ですが全国的にも有名な漁港があり、
震災前でも名前を言えば大方の人から
「○○で有名だよね!」
とかえってくる、漁業の盛んな街。



川の河口の近くにあった家から、
意識をせずとも毎日
太平洋が目に入ってきていました。


故郷に居場所を作れなかった。

18年間その街で暮らしていましたが
地域にも学校にも居場所を
作ることができませんでした。



当時は学校でも家族にも
機嫌が悪くないか、と
顔色を伺ってばかり。



今でも故郷に帰ったとき
家の外を出るのが恐ろしいくらい。



たぶん、これからもこの故郷と
ご縁が薄いのだろうと思います。



2011年3月

故郷を離れて大学に入学をして
都会の大学のような他の大学や外部の人との
関わりが想像以上に少なく、
想像以上の閉鎖的な世界のなかで苦しんだり、
泣いたり、悩んだり、たまには楽しんだり。



たぶん、人並みの大学生活を
送ったのだと思います。



2011年3月。



大学4年生。



やっと就職活動・卒論作成が終わり、
学科の友人と小旅行に出掛けたり、
所属していた団体の追いコンも終了。



当時住んでいたアパートの荷作りをして
3月最初の土日に友人に手伝ってもらい
荷物を業者のトラックに積んで仙台へ。



仙台の新居にはすでに父母が待ち構えていて、
父母と荷物を新居の中へ運び込み。
そして近所に親戚が住んでいたので、挨拶へ。



「11日は秋保(仙台の温泉)で会議だから、12日に新しい携帯を買いに行こう」



そんなことを父が言っていたっけ。





父母が地元へ帰ってからは
数日かけて一人で荷物の整理をし、


市役所や警察署に行って
住民票や免許の手続きをして、


当時廃れ始めていたmixi
友人たちと近況を報告しあい、


卒業式の日の再会を楽しみにして。



14日から始まる就職先での研修準備を兼ねて
お弁当のおかずを作りおき。



大学生活が終わる寂しさ
新生活への希望や理想・不安


そんなものが渦巻いていて
まだ学生気分が抜けきれていない、
そんなときでした。


3月11日14時46分18秒

引っ越ししてから数日しかたっていない
仙台のマンション2階の自室で
遅いお昼御飯を食べようとしていました。




ガタガタガタガタ…




あっ地震だな。やけに余震が長いな。



そう思っていた矢先、



ガタッガタッガタッ!!!



本棚の上から、時計が落ちる。



お椀から、揺れでスープが溢れそうになる。



これは尋常でない…!


もったいないけれどスープを流しに捨てて、


急いで棚の高い場所に置いてあったCDデッキを
ベッドの上に投げつけるように下ろして、


棚が倒れて来ても大丈夫な
部屋の真ん中で座り込みました。



当時東北の太平洋側は数年に一度
震度5以上の地震に見舞われるので
そのくらいなら私もあまり動じません。


ですがこのときは、異様に本震が長かった。


少し穏やかになって終わるかな?
と思うたびに揺れが強くなり
収まる気配がない。



宮城県沖地震の再来か…?!

違和感を感じながら、
揺れが静まるのを待ちました。


15時すぎ

やっと揺れが落ち着いて、
情報を仕入れるべくテレビをつけたら
電源が入らない…



部屋を見渡すと、トイレの換気扇や
冷蔵庫も電源が切れている。



あぁ、停電だ。
少ししたら復旧するだろう。


このときはまだ楽観的でした。



しょうがないので携帯の
ワンセグをつけてお昼ご飯。


NHKにチャンネルをあわせると、
見慣れている故郷の風景が。



そして、


『数メートルの津波が来ます!今すぐ逃げてください!』

何言っとるん?


念のため、実家にいるだろう母と妹にメール。



そうしたら今から避難する、と妹から返信。




そして少ししたら、


『家の周りがすべて流された。うちは残ったけど、もう住めない』


と再度メールが。



何が起こったの?
住めないってどういう意味?



メールの内容をうまく飲み込めないでいました。


11日の夜


その数時間後に秋保温泉での会議が
中止になった父が私の元に立ち寄り、
母や妹からのメールを見せたら早々に故郷へ。




その日の夜、ひとり近所の小学校の体育館へ行き

避難された方々や流れてくるラジオのアナウンス、
mixiやネットニュースで情報を集めたら



故郷を含めた太平洋側が壊滅

浜に数百人の遺体があがる
それも時間が経つにつれて人数が増えていく

震源宮城県



大勢の避難者でぎゅうぎゅうになった
余震もおさまらない暗い体育館のなかで、


『夜明け前が一番暗い』


かつて大学の先輩が言っていたことばが
脳裏をかすめました。



今が一番暗いときだ
後は明るくなっていくだけだ



そうやって、自分を鼓舞するしか
できませんでした。



3月12日以降



津波で跡形もなく流された家
水をかぶってしまったかつて街だった場所
あやふやな避難者数や死亡者数


朝、避難者で回し読みをした新聞の号外で
やっと惨状を目の当たりにしました。


ですが、それらは比較的仙台や
県庁所在地に近い街の情報ばかり。


交通の不便な故郷の情報は、見当たりません。




この後体育館を後にして一度マンションへ。


外は憎たらしいくらい快晴で、
停電の影響で中途半端な場所に
電車が停まっている以外
一見普段通りの風景でした。




親戚が近所に住んでいることを思いだし、
迷惑承知で藁にもすがる気持ちで親戚の家へ。


そしてしばらくの間、お世話になりました。



電気が復旧した後

仙台駅から歩いて30分くらい。
中心部から比較的近い場所だったのが幸いし、
数日で電気が復旧。



ガスもプロパンガスだったので、
1週間くらいで復旧しました。


早速インターネットを繋いで、
ニュースやYouTube
故郷の情報を求めました。


そして…


故郷は海辺にあった石油タンクが
津波で流された後に発火し、
街の北側一帯で大規模火災


実家の周りは瓦礫や車であふれていて
実家以外の建物が見当たらない


実家近くにあった、この街で一番海に近い
JRの鉄橋は跡形も無くなっている。


その事を、知りました。



実家の状況


故郷と仙台を結ぶ直通バスが復旧したので
故郷にいた妹と、県外にいた兄を
仙台に呼び寄せました。


制服姿で、1週間近く地元の公民館で
避難生活をしていた当時高校1年生だった妹。


やっと実家の状況がわかりました。


築30年以上の実家がたまたま残ったのは
『重量鉄筋』という作りだったから。


1階が車庫兼倉庫 2・3階が住居のうち
2階の天井まで水やヘドロ・魚が入ってしまい
住める状態でない。


残った3階のある部屋は何かにぶつかって
数メートルの穴がぽっかり空いてしまった。


そして、

飼っていた黒猫君が行方不明になった。



3匹の猫

当時、実家では猫を3匹飼っていました。


8歳だった白猫君茶猫ちゃん


元々地域猫だった母猫ちゃんが家の
1階倉庫で産んだ兄妹猫。


生まれてから数日経った後、
母猫ちゃんと一緒に2階の住居に迎えました。


母猫ちゃんが地域猫だったので
近所に住んでいた妹の同級生君が

「うちの猫だぞー!」

と妹に言ったことがあるようです。
(最初に可愛がっていたのがその同級生君のお家でした)



母猫ちゃん・白猫君・茶猫ちゃんを迎えた
2年後の夏、母猫ちゃんがいなくなり
その3か月くらい後にお迎えした黒猫君



親猫とはぐれてしまったのでしょう、
まだ体が小さい黒猫君が
カラスに虐められていたところを
母が拾ってきました。



白猫君と茶猫ちゃんは
生まれた時から家猫だったからか
いつでもマイペースな猫でしたが、


黒猫君はどこか気が弱く…
家族以外の人間を見ただけでも逃げてしまう、
小さなことでもビクついてしまう猫でした。


3.11の時は生きていた

3.11のとき、猫を家の中にいれて
母と妹は車で避難。



翌日水が引いて、瓦礫の中を歩いて
やっとの思いで家に。



家の中は棚が倒れている、
ヘドロがべったり、
生きた魚がピチピチと跳ねている、
磯の臭いを凝縮したようなきつい臭いが漂う、
大きな穴が何か所もある・・・と
メチャクチャになっていましたが
3匹とも3階に逃げて無事でした。



全壊した実家に侵入者が

それから、両親は全壊した実家に通いながら
とても古いながら仮の住まいを見つけ出し、
家の片づけをしていたそうです。


ある朝、通常通り実家の中へ。


そうしたら、仏壇が壊されている


しばらく使っていなかった
古い時計が無くなっている。


見慣れない工具が置いてある。



泥棒が侵入したのでは?
思ったそうです。


また家に侵入して金品を盗もうと
企てているのでは。



すぐさま侵入者が置いていった工具を使って
空かなくなった棚を壊して
金品を取り出して。



そして家にいるはずの猫を確認したら、
黒猫君が見当たらない



暗いとき、訳も分からない侵入者が
実家に踏み込み、驚いた黒猫君が
逃げ出してしまったようでした。



暖かくなり、仮の住まいに白猫君と茶猫ちゃんと
一緒に引っ越した後も黒猫君を探したり
毎日実家にキャットフードを持って行ったり…
としていたようですが、
黒猫君が現れることはありませんでした。



私はお前を許さない。

地震津波『天災』です。


人間の力では防ぐことはできません。


でも、黒猫君の運命は…


紛れもない『人災』


なんで黒猫君がこんな目に
あわなければいけなかったの?
こんなお別れをしたくなかった。



3.11が近づくたび、そんな疑問や
悲しみが沸いてきます。



今となってはどうしようもない。


ただただ、黒猫君に辛く悲しいことが
なかったと祈ることと
あのとき侵入してきたお前を許さない


そうやって、黒猫君を供養するしか
今の私にはできません。



白猫君は4年前、茶猫ちゃんは5年前に
お空へと旅立ちました。

今は黒猫君と再会して、一緒にのんびり
お昼寝でもしているかな?


今度は寂しい思いをしませんように。



3.11 その後


楽しみにしていた大学の卒業式は中止。
大学生協の計らいで、希望者に
写真撮影のみ行われました。


でもこんな状態で行けるはずがなく…


袴は早々にキャンセル。
そのお金を当分の生活費に充てて、
mixiに上がった友人たちの集合写真を
涙を流しながら見ました。


全壊した実家は半年後に取り壊し、
実家のあった場所は今では道路に。


街に散乱していた瓦礫はすべて撤去されて
街を被っていた、磯の臭いを凝縮したような
ヘドロ臭は数年かけて無くなりました。



災害公営住宅や新たな観光拠点が立ち並ぶ。
幼いころ見ていた街の風景が思い出せないくらい。
街の景色が、着々と変わっていっています。



それでも元実家跡に行くと何となく
かつての風景が残っているような気がします。




私の家族・親戚は家の全壊で済みましたが、
ご近所の方やかつての同級生の家族、
妹の習い事の先生や父の親友など
お亡くなりになった方が数多くいました。


実家の近くにも亡くなった方が流れ着いて、
私の家族も何人もの遺体を見た
と話していました。




そしてかつてご近所だった、
「うちの猫だぞー!」
と言っていた妹の同級生君。


高齢のご家族と一緒に津波に飲み込まれて、
一時行方不明に。


数ヵ月後、海から見つかりました。


当時高校1年生。


3.11のあとしばらくしてから執り行われた葬儀には
中学校の同級生が多く参列したそうです。


もし生きていたらどんな人生を
歩んでいたのだろう・・・?



このような形で亡くなった彼とご家族が
不憫でなりません。


おわりに

3.11から9年。



時が過ぎるとどうしても風化してしまうもの。


かつて家々が立て並んでいた場所。


今では数メートルの土砂が詰まれ、
そこから草がぼうぼうに生えて、
まるでその地域一帯が古墳のよう。



大昔、存在感があったはずなのに
いつの間にか忘れ去られてしまった古墳のように、
東日本大震災が忘れられないことを願います



今年はコロナウイルスの影響で式典が中止。


多くの被災者にとって式典が拠り所に
なっていたのでとても残念です。


それだけでなく、卒業式や入学式も
中止になっていると耳にします。


早くコロナが収まりますように。





そして、まだ多くの方の行方が分かっていません。


ご冥福をお祈り申し上げるとともに、
一刻も早く見つかることを願っております。



そして福島はじめ、この9年間の間に
発生した災害で未だに避難なされている方が
数多くいらっしゃいます。



どうかお身体ご自愛ください。







人の数だけ、3.11に対する想いがある。


不幸競争をせず、互いを否定せず、
互いを受け止められますように。



他にもいろいろありましたが…
それについてはまた来年にも。


次回のブログは通常稼働の北海道旅に戻ります。



最後までお付き合いいただき、
ありがとうございました。





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今週のお題「卒業」