2020年7月のオロロンライン旅日記。ニューフェイスの道の駅の横でひっそりと佇む、その町のかつての風景を残した建物がありました。
話が前後しますが・・・
前のブログでPさんという方と小平町『すみれ』へ
訪問したことを書きましたが、
その道中、時間調整とトイレ休憩をかねて
小平町の道の駅『おびら鰊番屋(ニシンバンヤ)』へ!
こちらの道の駅、2015年4月にオープンしたそうで
まだピカピカで広々✨
それも
『休』・・・観光交流センター
『食』・・・食材供給施設(レストラン)
『観』・・・重要文化財 旧花田家番屋
の3つのテーマを併せ持った施設で
お土産物や軽食コーナーも豊富( *´艸`)
小平町やオロロンラインの様々な情報が
凝縮された施設となっています!
トイレ休憩を済ませ、『すみれ』に行くにも
少し時間が早いような・・・
ん?
道の駅の横にある、この大きくて古い建物はなんだろー?
Pさん「時間があるし、覗いてみる?」
SatoRu「行く!」
ということで、時間調整もかねて覗きに行ってみました。
小平町『旧花田家番屋』を覗いてみた
かつて北海道各地にあった『鰊御殿』
その数の子の親であるニシン。
北海道では江戸時代よりニシン漁が盛んで、
米がとれない松前藩ではニシンを年貢として納めたり
アイヌとの交易で使っていたそう。
▼北海道の郷土料理 ニシン漬
明治、大正、昭和・・・と第二次世界大戦の前まで盛んだったニシン漁。
そのころニシン漁で財を成した有力な網元が、
こぞって造った住居兼漁業施設が『鰊御殿(番屋)』
小樽の鰊御殿や、鰊御殿を改装した北海道3大バカユースホステルの
生き残りとしてと有名な(笑)礼文島の桃岩荘などが有名ですね。
ニシン漁の衰退
かつては栄華を誇ったニシン漁。
春告魚とも言われ、初春の2~3か月だけ漁をすれば
1年間生活を支えることができるくらい、
当時重要な産業だったニシン漁。
ですが1950年代より漁獲量が減り、ニシン漁が衰退。
いつの間にかニシンは幻の魚とまで言われるまで・・・。
近年は、人工ふ化や稚魚の放流などを行って
漁獲量を増加させる活動を行っているそうです。
『旧花田家番屋』の中は?
ニシン漁が衰退するとともに、北海道の沿岸部に競うように
建てられた鰊御殿も解体されていきます。
明治時代に建てられ、昭和46年に国指定重要文化財に指定された旧花田家番屋。
日本最北の重要文化財でもあり、既存では日本最大の鰊番屋でもあります。
平成に入ってから北海道遺産にも認定。
重要文化財となったのち町で3年という月日と1億9000万円もかけて
解体・修復を行い今に至っており、館内を見学できるようになっています。
かつて200人で生活していた番屋
最初に入口にある券売機で入場券を購入し、中へ。
・・・広いっ!!
ニシン漁が盛んだったころ、漁夫のみでなく船大工や鍛冶職など
約200人もの人が寝起きをともにしていた旧花田家番屋。
小上がりのような2階にあたる土間では食事を、
その横にあるL字のように土間を囲んでいるスペースでは
寝床として使われていた様子。
この囲炉裏(いろり)もかつてまだ寒さが厳しい北海道の初春、
漁で冷え切った体を温めるために多くの人々が囲んだのでしょうか。
ニシン漁ひとつで、こんな大規模な建物を造れるまで栄えていたのか…
当時のニシン漁の勢いが建物からひしひしと伝わってきます。
館内には、当時使用されていた漁具を収めるスペースも。
ニシン漁で使われていた船の模型。
荒れ狂う初春の日本海を、屋根もない船で寒い中
危険と背中合わせで必死に漁をしていたのでしょう。
100年近く前の、この町の風景が伝わってくるような気がします。
写真には納めていませんでしたが、
土間の奥には広々とした畳敷きの網元の生活スペースがあり
有田焼(100年近く前のもの!?)の和式トイレも残っていました。
かつてはニシン漁で巨額の富を得たにもかかわらず、
衰退し建物を壊し場合によっては土地を離れ・・・
そんな人が多かったのだろうか・・・?
『盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらはす』
平家物語の冒頭で出てくる、ときが無常に流れていく
言葉がぼんやりと脳裏をかすみました。
かつての明と暗を今に、そして未来へ伝えるための施設。
その建物だけでも、その地の生活模様や産業が、見えてくるような気がしました。
もし機会があったらお立ち寄りください(^_^)v
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